ちょっと怖い話Ⅱ

娘の夫はフランスの証券会社日本法人で法務の仕事をしていましたが、かねてから待望のEU国際裁判所(ルクセンブルグにあります)にポストが空いたとのことで転職しました(予めそのポストの資格は取っていました)。最初はセットアップ等で彼が単身赴任をして数か月後に、娘と孫娘が東京から彼に合流するのに、我々夫婦もパリまで同行しました。

娘の義父がシャルルドゴール空港まで出迎えに来てくれて、大荷物の娘は大助かりでした。欧州の車は車内のスペースが上手く工夫されていて、大荷物プラス我々4人が車にすっぽりと収まりました。その晩の先方の両親との夕食は時差とアルコールと薄暗い落ち着いた雰囲気で、眠いのを堪えるのが大変つらかった記憶があります。

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大声で”何をするんだ”と叫び

翌日も先方の両親・家族達と交流を深めるべくパリ郊外(印象派の画家がかつては多く住んでいたというシャㇳゥ―)の娘の義父のお宅を訪ねて、楽しい時間を過ごしました。世の中は狭いし,縁とは不思議なものだなと感じたのは、先方のお父さんとの話が盛り上がり、あの話題、この話題と尽きぬ話をしていく中に互いの共通の友人の名前が、アメリカの友人、日本の友人と次々に出てきた事でした。

その種を明かせば、偶然にも互いが人生の殆どを化学業界にどっぷり浸かりかつ海外を右往左往していたからでした。家の中から庭の隅々まで案内してくれたのも欧米流でしたが、地下が広く、蚤の市でガラクタを色々買ってきて、そこでストックしているのだそうです。ガラクタをリフォームするのが奥様の趣味とのことでした。

その翌日はルクセンブルグに行く娘家族を、先方のご両親と共にパリ東駅で、見送りました。娘がいよいよ異国で娘自身の家族と共に暮らしていくのだとの実感が湧いてきて、深い寂しさを感じずにはいられませんでした。

さていよいよ夫婦二人でパリの街歩きを楽しもうということになり、予めガイドで調べていたあちらこちらのパサージュを廻り、古本屋やら雑貨屋やらのお店巡りを堪能しました。

次の日は休日で、朝からルーブル美術館に地下鉄で行く事にしました。地下鉄はガラガラで我々のような異邦人ぐらいしか乗っていませんでした。我々はすぐ降りるからと思って座席に座らず立っていました。何駅目だったかt、ある駅で扉が開いて数人の男たちが乗り込んできました

その中の一人がサングラスを掛けていて、いきなり小生の足元に何かを投げて、いかにも目が見えない素振りで、それを探すふりをして小生の足元から両手で小生の体のほうまで弄りだしたので、小生はたまらずその男の手を叩き、大声で”何をするんだ”と叫びました。

その時には数人の男たちに取り囲まれていたのですが、それは後から家内に言われて気が付きました。空席の目立つ車中でしたが、周りの視線が一斉に我々に注がれ、男たちはたじろぎ、後ずさりしました。次の駅にはあっという間に着き、男たちは全員こちらを睨むようにして、そこで降りて行きました。降りてからもまだこちらを見て睨んでいました。それから急に、難を逃れた安堵の感覚よりも、むしろ恐怖心にかられ体が震えました。

しばらくしてから、なぜ自分が咄嗟に以上の行動を取れたのかと考えていたら、昔、ニューヨークの街角で、似たような経験をしたことを思い出しました。

当時はニューヨークのマンハッタンで駐在員生活をしていて、郊外の家から通勤電車でグランドセントラル駅に降り立っとスイッチが入るような緊張感を保っていることが求められるような日々でした。

いつもポケットに5ドル紙幣を入れていて、小銭を恵んでくれと半ば脅迫的に言われた時に渡せるようにしていましたし、実際に渡したことは何度もありました。

ある夕方の薄暗くなる42STで、ガラの悪そうな若者がたむろしていましたが、その中の誰かがいきなり小生の足元に小銭を何枚もじゃらんという感じで投げつけてきました。ここで立ち止まったら碌なことは無いと、咄嗟に感じて、何もなかったかの如く通り抜け、難を免れました。

この経験が図らずも活かせたのかなと思いましたが、皆さまもこの文章を読んで頂く事で、海外ではこういう事もあるのだとご用心頂ければ幸甚です。    

 

執筆者: 海外支援G 宮崎清

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